天帝教初代首席使者・李玉階先生の略歴


      李玉階先生は道名を極初と称し、道号を涵静老人と号する。
1901年、 中国江蘇省呉県に生まれる。幼少の頃から家庭にあっては「心田を耕すことを楽しみとする」、
      「君子に三つのおそれあり、最も大きなものは天をおそれること」だと教えられてきた。
      中学時代、自分の小遣いを倹約して、父の遺墨、「太上感応篇」、「文昌帝君陰徳文」という勧善を
      旨とする二編の文章を印刷して、長江の江華汽船の執事に依頼し、それを旅客に三年間も配布し続けた。 
1919年(民国八年)、第一次世界大戦後、日本は山東省におけるドイツの権益を受け継ごうとうする
      理不尽な要求を提出し、パリ講和会議はこれを承認しようとした。
      中国の学生は、それに強く反対し、「五四運動」を起こした。当時十九才の若さの彼は学名を李鼎年と称し、
      呉淞中国公学の学生分会長で代表を兼ね、また上海学生連合会の総務部長でもあり、
      上海学生・商人・労働者のストライキをリードし、その影響は全国に及んだ。
      北京政府はその圧力でついにドイツに対する講和条約の調印を拒否した。
      彼はこの年に中国国民党へ入党した。
1924年以後、官界で才幹を発揮し、国民政府財政部長宋子女の機要秘書に任命され、初の税法草案を完成した。
1930年の冬、南京で天徳教主簫昌明師に帰依し、これより身をもって弘道に捧げ、
      上海宗教哲学研究社を創立し、廿字真言を奉じ行い、座禅と天人気功とを結び、
      人心済度と救劫のために努力した。
1935年、 師命にしたがって西安に布教したが、それまでには、母の励ましと夫人過純華女子士の支持を
      忘れてはならない。ご夫妻は人生の旅途において終始一貫、よく理解しあい、甘苦を共にした。
1936年、太白山に登り、師伯雲龍至聖から次の諭しを受けた。「来年(1937)の夏、劫難が起こり、
      国難は頭上に迫る」、「来年7月2日までに退官して、家族を伴い、華山の白雲峰に隠居し、
      長期の祈祷を行い西北の門戸を守り、天心に応えよ」と。
1937年7月2日、彼は夫人と四人の息子、維生(l1歳)、維公(9歳)、維光(7歳)、維剛(4歳)及び子供達の教師と共に
      華山に登り、これより「涵静老人」と自ら署名することになった。7月7日、日本軍閥は中国に出兵、
      蘆溝橋事変を引き起こしたため、ついに日中八年間の戦争になってしまった。華山滞在期間(1937-1945)、
      彼は座禅を通じて宇宙境界に参悟し、また抗日戦争最後の勝利を祈祷し、
      それは八年の間一日も怠らなかった。 
      同胞の戦争塗炭の苦しみを見るに忍びず彼はチャリティーの救済機関「紅心字会」を作り、棺桶、
      医薬を喜捨したり傷病者を援助し救済した。
      また、自分の静観によって得た日本軍の重要な戦略的配置を胡宗南将軍の参考に提供した。
1932年の冬、彼は弟子黄維道と長男維生を通じて無形の霊界と天人の学術研究を進め、
      宇宙自然の秘密を闡明する「新宗教哲学思想体系」を完成しているが、それが即ち今日の
      天帝教の教義『新境界』である。日中戦争勝利の前夜、雲龍至聖は彼に言った。「君、別に使命あり、
      速やかに下山して、蓬莱佃島へ行き給え」と。
1947年、 中国に内戦が起こり、彼は上海で各宗教のリーダーと連合して「宗教大同盟」を成立し、
      平和建国をアピールした。
1949年に蓬莱佃島「台湾」という宝島に来てから、彼は人類の劫難の消化減少と中国の
      前途のために祈祷し次のように予言した。台湾の前途は絶対楽観的であり、
      第三次世界大戦が終わるまで、台湾はずっと中国の自由な楽土であり、
      世界の桃源郷であり続けると。
1951年自立晩報(報道紙)を継承して経営することになった。1958年、政府の出版法の修正や新聞自由の
      妨害などに抗議するため、毅然と中国国民党を脱退し、自立晩報の標題の下に
      「無党無派、独立経営」と標榜した。それは今日まで沿用されてきている。
1965年、彼は功なり身を退くという理念に従い、自立晩報を隠退して、静かに天命を待つ境地に入った。
1968年、彼は日本に赴き、「新境界」について講演し、その日文翻訳を完成した。
1976年、彼は観光親善訪問のため、アメリカに赴き、米ソの対立を深く感じ、世界情勢を強く憂慮した。
1978年、彼は「中華民国宗教哲学研究社」を設立し、科学的客観的な見地から宗教哲学を研究し、
     「宗教大同」の境界に達するよう期待した。
1979年7月に、中国の正宗静坐伝習を開設した。有縁の範囲を広げ、上帝の教化を弘揚することが主旨である。
1980年、 米ソはアフガニスタンの危機によって、核戦争は一触即発の窮屈に追い込まれた。
      彼は天帝教を復興して危機を挽回するよう上帝に祈祷した。
1980年の冬、ついに上帝の恩恵によって許され、天帝教は再び地球上に降臨し、人間界には教主を設けず、
      李玉階先生が天帝教の人間界駐在初代の首席使者に特派された。
      天帝教の使命を達成するため、核戦争の壊滅的劫難の消化延伸を祈って、
      自由中国台湾で長期間祈祷会を行うほか、国を越えて祈祷大会をも主催した。
1983年日本では「人類壊滅危機を解消し、日本重大天災を軽減する」ため、富士山祈祷大会を行った。
      「富士山祈祷後に日本を代表する五大神仏からのメッセージ訳文『大和吼声』がある。
1987年11月14日、米国のロサンゼルスでは「人類核戦争の危機を解消し、米国カルフォルニア州での
     地震天災軽減」に対する祈祷大会をも行った。
     奇跡が作り出されるようにと、上帝に祈ったのである。そのためロス市議会は李玉階先生に表彰状を授与し、
     その非天憫人の壮志に感謝した。
     天帝教復興の基地台湾を確保し、中国の平和統一を促すために、
     彼は1991年1月と1992年6月の二度にわたり、郵小平先生に書画を送り、共産党の一党独裁を放棄し、
     多数党による政治を行い、三民主義を中心思想とし、一つの主義一つの中国という台湾海峡をはさむ
     真の平和統一の道を歩むよう期待した。
1994年5月の末までに、彼の指導する天帝教は、世界各国に分布する信徒同書が数十万人に達した。
     しかも、中華民国台湾、日本、米国のロスなどに、四十幾つの教院や道場を作り、天人研究学院、
     天人修道学院及び関係研究機構を設け、エポック・メーキングな天人学術研究を進めている。
     天帝教の終極の目標に達するため、天人の共同奮闘を通じて大宇宙へ進出し、
     「新境界」の英語版の完成にマッチして、宗教の国際的宏布に力を尽くしている。
     92才を超えた夫人過純華女士と共に、万里の遠きをものともせず、米国、日本に赴き、縁者を済度し、
     宇宙の大道を宏揚している。このように、日を経ると共に益々堅く奮闘して、
     おそれるところなしの精神こそが、天帝教のこの世に積極的光臨し、
     世を救う精神の原動力になっているのである。